プロローグ 踊る水
(もののけの森から抜粋)

文・カワラ・・・「踊る水」主宰

踊る水(1) イサドラ・ダンカンの水脈
 
「もし、人が私に、いつから舞踊を始めたのかとたずねるなら、私はためらいなく母の胎内にいるときから、と答えるだろう。」(ダンカン自伝『わが生涯』)
 20世紀初頭、バレエの天才ニジンスキーと同時代を生き、はだしの舞姫とうたわれたダンカン。ニジンスキーにおいてバレエが頂点に達した時代に、ダンカンはバレエを魂の表現ではなく、訓練と忍耐に支えられたゼンマイ人形の踊りだとこきおろし、自らトウシューズを投げ捨て、バレエの基本ステップもすべて無視して、内から沸き起こるダンスの泉に入水した。
 愛と革命とダンス、このフレーズが三つ巴で似合うのは、古今東西ダンカンが筆頭だろう。20世紀の初め、ニジンスキーとダンカンというダンスにおける両極の天才が時代の空気をおしひらいた。古典の軌道上から神へジャンプしたニジンスキーと、古典と断絶することでダンスそのものを生まれ変わらせたダンカン。
 ダンカン派舞踊の第一理論とは、「一つの音楽に耳を傾けていると、その音楽の光と振動が心の中の一点、光の泉に流れ込み、魂の鏡にその内的幻像を反映する。」というもので、彼女はこれを「精神幻想を反映する遠心力」と呼んだ。しかし、この舞踊理論は多くの弟子達に伝えられたが、誰一人それを血肉化できなかった。それはダンカンがダンスの生命は伝えたが様式の伝承を持てなかったともいえるが、難問だ。どんなすばらしい理論も言葉も様式も伝統も、それに相たいする私の内奥の希求と真正面でぶっかりあうときのみ、本当の意味が立ち上がってくる。オンピトのいうぶっかりあいであり、岡本太郎のいう爆発である。
 ダンスの水脈に向かうには、鯉が滝を昇る激しさと、木々が水をすいあげる静かさの両極が必要だ。動物性と植物性その間を行き来する鉱物性。この両極の間で引き裂かれるようにぽっかり開いた空、そこにとうとうと流れるもの、それが生命の本質だ。存在が、引き裂かれつつ場を開いていく。だから物語はいつもせつない。火と水 陰と陽 男と女 魂と肉体 初めから割れてしまっているその片方と片方を、単純な身振りに置き換えてみるとビューンパ・ダンスになる。ビューンは伝統、パは断絶だ。そして、パをいれる間隔を無限小にしていくと、パ(断絶)の連続こそがビューン(伝統)なのだとわかる。生命はやはり,賢治のいうようにずーっと連続しているものではなく、星のように明滅しているのだ。断絶はほんとうのやさしさというものにつながっているのかもしれない。ビューン、パ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


踊る水(2)Bui Generationから北斎の方へ
 ダンカンからBUI generationへ、そして北斎の水脈へと入ります。
 僕が北斎にこだわりつづける大きな理由は、その3万点を超えるという絵一枚一枚から感じ取れる日本人の原身体性の爆発に対してです。おそらく、明治維新を境にして、日本人の身体は西洋の流入で変わり始め、昭和の高度経済成長期に加速度をあげて原質をやせ細らせることになった。日本人は、水と身体に対してあまりに無自覚すぎた。それは一方では、日本の風土があまりに多彩で繊細なため、主語も使わず、自然に対して溶け込むように生きることが豊かだったながい歴史からすれば無理もない。だれのせいでもなく、必然なのだ。しかし、それも限界点を超えてしまった現代の身体性を生きながら、それでもなお、生命50億年の夢をこの身体で受け継ぎ、つぎへつないでいかねばならんのです。ダンカンのいうように、特殊な体ではなく、センターが自然にまっすぐに伸び、そして精神が未知の訪れに対してまっすぐに開いていること。PNGの人達の圧倒的な存在の分厚さを見、そして北斎の絵の日本的原身体性を見ても、思いはそのことに飛ぶ。あこがれる身体が、いまここのこの自分でなくて一体どこで生きるのか。夢見られる私を生きることが、私のただ一つの責任なのだ。私とは生命の名である。オンピトのおかげで、パプアの身体性を透かし見て、そのむこうにある自分の原質と向き合える気がしてきた。そしてそのときに、いまもっとも力をもらえるもののひとつが北斎なのです。来年旗揚げする『踊る水』の次の視線は、葛飾北斎ダンスプロジェクト「北斎の海へ」へ向かいます。その水脈とは、かつて北斎の絵が海を渡って,西洋に入りスパークして練りあがった一つの流れがもう一度日本を打撃したように、今度は私という流れの原質をこそ一打万鐘しようという北斎ダンスなのです。
 ダンスは生命とともに輝きたがっている。真葛なみこ(ひと呼んでやすこだま)のおでこのように発光するダンスはいかが?

踊る水(4)「太極少女」(振り付けノートから) 
 大人と子供の境目をギリギリのバランスで歩く.私は大人になることを拒否し,子供のままでいる事も止めた.両の世界の裂け目にまっすぐに立つ.私は太極少女。世界はいつだって私を中心に周り,私が消えれば世界も消える。傲慢なまでの少女性をこそ私は生きたい。私はいつだって私を本当に喜ばせる事物とともに在りたいし,歩いていたいのだ。宇宙はいつも私が喜んでいる顔を見たがっているし、私も宇宙を喜ばせてあげたい。考えたくない世界のことや、認めたくない私の事実。その海のなかで、目を閉じて歩き出す.目をあけた時,格闘すべき相手は大人の私かそれとも子供の私か。いっそのことまとめて遊んでしまおうか.いつだって私は、この手で空に星座をかいて遊んできた.そうだ、星座が私の庭なのだ.ケンケンパで遊んだこの足が、星をかけた足だ。この足で私は立ち、歩いて行く.北斗七星を足で踏み、太極を両手で遊ぶ。大人と子供の境界線を新しい価値と意味をまとって歩いていく。私は太極少女。 (海のかなたからの振り付けその一)


踊る水(5)「四股型パパパ」
 四股立ちの似合う女子は稀だが、えりかだまは良く似合う。このことは、彼女の身体そのもののポテンシャルとうつわが、時代で言えば,明治を突き抜け江戸期まで一気にさかのぼってしまえるように思わせる。なにか芯の太い身体とは彼女のような在りようのことだ。そして、日本古来の立ち方四股立ちをベースにした振り付けが、四股型パパパである。えりかだまの背後に隠れた江戸の空をひっぱりだしてみたい。それがねらいだ。深い深い個性に興味がある。自分に流れている血はどんなものなのか。何故今ここにこうしてこの体とともに在るのか。誰と比較しようもない、なんのつまらぬ評価もされようのない唯一の私。その私が最も生き生きと輝いていたであろう江戸時代の私を呼び起こす。四股型パパパを通して向かいたいもの、それは北斎美人図の方角だ。ただそこに立って身をよじるだけで、空気を江戸の空に変えて行く。将来そんな日がくるやもしれませぬ。

踊る水(6)アユリカン・ダンス
 私は、遡上する魚(ダンサー)。何処までさかのぼれるか行ってみる。人類発祥の地アフリカの川にも上ってみる。空気と水の違いは一体何だろう。水を空気のように呼吸し、空気を水のようにして泳ぐ。私は、何度でも遡上する魚(ダンサー)。体の記憶と魂の思い出。その間で袋小路の、私と言う名の心。立ちあがり、泳ぎだし,踊り出すものは一体何か。足裏の記憶は太古へ伸びる道。重心を足裏に落とし、そこから川を遡る。指先の願いは未来へ通じる道。太古と未来の中心にあって、いまここでそれをつないでいるものが背骨だ。だから、背骨はしっかり立たねばならぬ。ダンサーは背骨で思考する。太古から未来へ,未来から太古へ,その二つの時間の隊商が、腰という十字路で反転する。私は肉の目を閉じ,足裏の目で水を見る。指先で未来を呼吸し、みずおちの滝を,歴史を遡ってきた鯉が滝昇る。体の内奥に耳をすますと、無数の私が踊っている。AYU・RE・COMEBACK DANCE そう、私という川を何度でも遡上する魚こそ、ダンサーなのだ。




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