■野神楽 やまむすべ カワラ
8年前、1993年の大晦日に、やまむすべは始動した。
12人の異形の集団が日和田山から高麗神社まで、あふれる原初への思いと願いを担いで、火の塊となって高麗の里を吹き抜けた。
その前年、92年に僕は高麗神社で初めて舞踊公演を打った。
タイトルは「振祭躔」(しんさいてん)。三巻敏朗のドラミングをバックに2時間、一人で踊り続けたその舞台は、高麗神社という場と高麗郷の地下水脈あるいは地下血脈に挨拶を捧げる腹づもりだった。
宮司である高麗澄雄さんが、見終わってから僕を宮司室に呼んで感想を聞かせたくれた。驚くべきべき的確さで本質をついた感想に電気が走った。
そしてこう言ってくれた
「俺は寿命としてそうだが、あんたは若いのに既に片足を棺桶に突っ込んでるようなものだな。あんたの踊りは祖霊の踊りだ」
猛烈にうれしかった。その数年前から僕は祖霊とともに踊る踊り手でありたい、と願い続けていたからだ。
やまむすべの構想を宮司さんに相談したのは、それからほどなくしてのこと。
やまむすべを語るのに、「出会い」を抜きにしては語れない。
出会いとその結び合いこそ、やまむすべの根っこであり、生命だからだ。
90年の6月、飯能の陶芸家、佐々木浩章さん、玲子さん夫妻に出会うことから、僕の踊り手としての新しい出発は始まった。
師とそのダンスグループを離れて3年が経ち、僕は見知らぬ土地で、一人の知人も繋がりもない関係の中から一人で踊り始めたいと思った。
「鬼踊る鬼」というタイトルをもって、佐々木さんの陶房を初めて訪ねたとき、庭には彼のつくったかわいい鬼たちがたくさん並んで出迎えてくれた。
あっと思う間にたった二日間で飯能市各地七カ所の公演地が決まり、連続七日間の熱風のような会をもった。その全ては彼がものすごい速度感とともに交渉してくれたのだ。そのこだわりのない突き抜けた速度感に僕はしびれた。
その公演に太鼓や笛などで参加してくれたのが、当時まだ高校を出たばかりの四人組、山本謙治、山田一博、中津川信、石坂亥士だった。出身校は後の話でも度々出てくる、自由の森学園・二期生だ。
毎日、ほとんど僕は熱病患者がうわごとを言うようにして、自分の踊りのことを話し続けた。話の内容はともかく、彼らは僕の発するものを、若いしなやかさで受け止めようとし続けてくれた。ひたすらに溢れてくるものを誰かに向けてただただ放ち続ける。あの時期の僕を全身で受け止めてくれたこの四人と、佐々木さん夫妻に、僕は頭が上がらない。感謝のしようがないのである。
年齢や才能というものは、そのことにのみ価値があるわけじゃないと思う。
今という時空にその人がどう立っているか。あるいは歩いているか。そのことの方に僕は感心がある。そして才能や場のちからとは、そういうあるよき状態、あるいはよき在り方をする場所に訪れてくるものだと感じている。
人の才能のすばらしさや場所自体の持つちからは個の切り離されたものではなく、まさしく天地自然宇宙の運行の諸々のチャンス(機会)、ウェイブ(波長)、グレイス(祈りもしくは願い)によって織り込まれた衣としてのちから(生命)なのだと思う。
個の所有物とはなり得ないからこそ、どんな種類のものであれ、何か「よき事」が訪れてくる場、あるいは人はすばらしいのであり、うれしいことだ。作為ではなく、すでにここにおいて祝福されているからである。
そこいらじゅうが、この至福に満ちあふれることを夢に見続けている。
ほとんど夢遊病のように僕は夢を生き、現実を遠くに見る。僕にとってはバランスのとれる生き方だと思っている。宮沢賢治もノヴァーリスも今日ここの言葉なのだ。
こういった「よき事」が時空に織り込まれるように、祈りとして働きかけ、チャンスが生じるように骨身を整え、そしてまず自ずからウェイブを発する。
この三点を通して場所へ身を差しだし続けた無数の祖霊たちのその先に芸能、踊りの始源があると思っている。
とてもかなわぬことと知りつつも、その始源へ向けて踊ってみたい。
この欲求のどうしようもない熱に突き上げられて、やまむすべはやって来た。
つづく 010826