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奥武蔵の風に吹かれて NO.023 明治の肖像 1 2001.6.15


 大阪では嫌な事件が起きている。が、その件に関しては関係サイトの奥武蔵ネットで取り上げているのでここでは、昨年6月13日に百一歳の長命で他界した祖母との関わりから、「家族のありかた」「命」について考えてみたい。

 祖母は明治32年(1899年)1月、現、毛呂山町阿諏訪で生まれた。訳あって3才で父方の実家へ預けられ、以来亡くなるまでずっと高麗郷で暮らすことになる。

 18の時に私の祖父と縁があり、当時では珍しく恋愛結婚だったそうだ。親の愛情もろくに知らない祖母にとって、新しい家族はそれこそ、宝のようだったろう。貧しい暮らしながら10人の子を授かることになる。が、うち3人は幼少時に他界。今であれば何でもない、些細な病が原因のようだった。だが、それも当時とすればやむを得ないこと。悔やんでも仕方が無い。

 その後もたくさんの死者を見送ることになる。101歳の天寿を全うするまでにはそれこそ数限りない死を乗り越えているはずだ。夫、親類縁者、息子、孫、近隣、友人・・・それこそ私の知る限りでも数えるのがもどかしい。かくいう私もまもなく44になる。これからいったい何人の死を送ることになるのか。生きるとはそういうことなのか。

 死があるから、生がある。そのことを身をもって体験してきた祖母なればこそ、生きることに常に前向きだった。いかなる死においても、それが悲しく、辛いことであることに変わりはない。が、しかし、生きなければならない。そして、家族を、家を支えてゆかねば。祖母には最後までその思いがあったようだ。

 祖母は生涯二度、大きな骨折をしている。一度目は1986年、87才の時。深夜自室のベットから踏み落ち、左大腿骨を折った。この時既に高齢だったため、完治は難しいと思われたが、3才から働かされ、結婚後も田畑を開き、野山を巡っては山菜取りに明け暮れた働き者であるが故、強靱な基礎体力と生命力が救いとなり、再び歩けるように。

 二度目は1996年。夕暮れ、隣家からの帰りしな、庭先でつまずき転倒。右股関節骨折。更に運悪く入院当初に肺炎を併発。普通、もうこれで終いである。しかし家族は誰ひとりそうは思わなかった。普段ともに暮らす中で感じ、それまでも風邪をこじらせ、危険な状態を幾度か経験してきたが故の思い。だが、むしろ痛みに耐えながらの寝たきりによる精神力と気力の喪失のほうが怖い。そこで、家族、親戚で連継し、朝から晩まで常に誰かが病室に滞在、声を掛け、夜は傍らで添い寝も度々という状態の中で、足を錘で吊られながら2週間が経過した。

 股関節骨折を治すには人口関節を埋め込む手術が必要となる。手術そのものは技術的に難しくないが、なにしろ97才、更に肺炎で衰弱した状態では全身麻酔は不可能との診断。逆に肺炎さえ収まれば可能性はあるのだろうか。医師としては完全に及び腰だ。

 このままではどのみち長くは保たない。そこで私は祖母に問うてみた。

「ばぁちゃん、手術してみるか? このままだと苦しいだけだしな。けど、麻酔が効いてそのまま帰って来れねぇかも知れねぇぞ。どうする?」

 それに対して祖母はもうろうとなりながらも

「手術でもあんでもいいから、早く痛くねぇようになりてぇ」

 それで私の腹は決まった。家族にも気持ちを伝え、一致。院長に談判をした。

「先生。手術をして下さい。本人も望んでいます。このままでは二度と立ち上がれず、いずれ早晩、死がやって来ます。なら、仮に全身麻酔が覚めずにそのままだったとしても、家族は一縷の望みに掛けます。生きることへ、前向きに向かって行きたい。それで駄目なら本望です。責任は私が取ります。医師に転嫁はしませんから」

 院長もそこまで言われると無理とは言えない。

「よし、体力の衰えを考慮してあと1週間。その間に肺炎が収まったなら、手術しましょう」

 それからの1週間はそれこそ祈るような日々だった。

 つづく。


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