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奥武蔵の風に吹かれて NO.024 明治の肖像 2 2001.6.23


 院長との相談から1週間。毎日点滴を繰り返すことで肺の炎症もなんとか治まり、漸く手術ができることになった。骨折からおよそ3週間目のこと。しかし、手術ができるからといって安心はできない。麻酔から醒めることなくそのまま昏睡状態に陥ることもあり得るという。

 いよいよ、手術当日。親戚の幾人かとともに、手術室へと見送る。あとはもう医師にまかせるのみ。

 待つこと1時間とも2時間とも。記憶も定かではないが、漸く手術が済んで、ストレッチャーで出て来たときには、何事もなかったような顔をしているではないか。こちらからの問いかけにもしっかり答えることができる。何という生命力。よほど良い機械を持って生まれてきたのだろう。

 案ずることはなかった。手術は無事成功。院長曰く、

「俺はもう医学が判らなくなってきたよ」

 医院始まって以来最高齢者の手術例であるとのこと。しかし、これも医師や看護婦による適切な処置と、点滴をはじめとする医療の力であることは言うまでもない。

 それから2ヶ月あまり。リハビリを重ねながら何とか再び自分の足で歩くことが可能となった。
 そして桜の開く頃、病院中に見守られ、奇跡の退院。正直、よくぞ再び帰って来られたと思う。あの骨折の痛みに耐え、しかも肺炎を克服しての手術。そしてリハビリ。孫の私でもたいへんそうな状況に耐え抜き、再び我が家の地を踏めるとは・・・

 たどたどしいながらも自分の足で大地を踏むこと。普段、健康な時には気にもならないことであるが、日常の幸福とは、どうやらこんなところにあるらしい。ありがたさと喜びを噛みしめている祖母の顔がいつまでも目に焼き付いている。

 やはり自分の家が一番だろう。畳の上を歩けることがいかに幸せなことか。時には喧嘩をしながらも家族と共に寝起きし、食事をとり、日々の暮らしの中に生き、そして全うすることの素晴らしさ。祖母の姿を見るにつけ、今後、いかなる事態が起きようとも二度と入院はさせない。そう心に誓ったのであった。

 この入院で家族として気づいたことを幾つか。

 先ず、なるべく孤独にしないこと。相部屋で何人もの患者がいるが、似たような状況で入院している以上、お互いの会話もままならず。さりとてヘルパーさんや看護婦さんは常時相手をするわけにはゆかず。ともすれば肉体はともかく、精神的に生きる希望を見失いかねない。そこで、家族や親類と力を合わせ、絶えず入れ替わり立ち替わり病室を訪ねることにした。ささやかな会話を通し、食事等を共にすることで、命のともしびを燃やし続けて欲しかったから。特に、小さい子供の力は絶大だ。よく、子供をシャットアウトしてしまう病院、あるいは個人がいるが、患者にとって幼児や、子供の声や存在がいかに絶大な力を発揮することか。

 次に、食事だ。口からものを食べ、尻から出す。これが基本だ。点滴に頼り切ってはいけない。たとえ少しずつでも、食べ物を口に含み、噛み、飲み込む・・・この一連の動作が生きる力となる。また、食行為によって精神の喪失をある程度防ぐこともできるのではないだろうか。やはり一人での食事は味気ないもの。そのためにも、食事時、傍らで共に食べること。これがいいんだ。

 顔を洗い、口を濯ぐ。毎日かかさず、蒸したタオルで顔を拭き、入れ歯を洗い(歯を磨き)うがいをする。蒸しタオルの湿度と温度が顔の血行を良くし、脳に刺激を与え、生きる力を湧き上がらせるように思う。

 など、些細なことが多いが、要は日常生活のリズムをなるべく維持する・・・ということではないだろうか。

つづく。達庵44回目の記念日に


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