紙響白韻 蛇喜猫賀
〜和紙張り三味線への旅〜 中川晶一朗
今年、自分の三味線に和紙を張った。和紙張りに楽器を変えたのだ。ここ4,5年考えあぐねてきたが、とうとう張った。冒険であるが、やるべき流れだと思った。
三味線は特異な弦楽器だ。皮が鳴る楽器である。その音色は皮の部分の材質に左右されることが大きい。動物性の皮から植物性の紙に変えることは、違う声を発する別の楽器に変えてしまうことでもある。
和紙は小川町在住のリチャード・フレイビンさんが提供してくれた。彼は、自ら地元の畑で楮(こうぞ)を育て、それを原料にした強い和紙を手渡して「やってみてください。」と言った。
コンニャク糊の水分を吸っても、ピンと張れるじょうぶな紙だった。北限の小川町では最上の楮がとれるそうだ。
美しい仕上がりになった。出会いから生まれた麗しい姿の三味線であった。
まだまだ工夫すべき点はあるが、「これが私の楽器、私の声です」そう胸を張りたい気分だった。
紙張り三味線は古くからあったようだ。三味線は1600年頃、沖縄より伝えられたと言われ、広く世間でもてはやされるようになったのは元禄の頃であった。近世の音である。クラシックギターに対するエレキギターのように、琵琶に対して三味線は,一つの掟破りの破手な、時代の音であった。その為、紙張り三味線のキャラクターは、音も小さく地味な響きとして、陽の当たるものではなかった。和紙はあくまでも皮の代用品であった。
和紙張りの三味線との出会いは、1996年、沖縄でのことだった。いみじくも沖縄は三味線伝来のルーツの地、思いがけない出会いだった。
持ち主は金城昌太郎さん、紅型染めの作家だった。昌太郎さんは沖縄の人にもれず楽器好きだが、三味線は苦手らしく、弾かないでしまいこまれたままの楽器は、皮が何度か破れてしまった。考えた昌太郎さんは、ある日仕事で使う型紙用の渋紙を三味線に張ってしまった。
天才的に無邪気で、その仕事振りでも生活振りでも、常識をポンと超えてしまうタイプの人である。渋紙の張られた三線を手に「これでもう破れないからイイですよ」と真顔で明るく言った。
欲のない音だった。素直で清らかな音だった。同行のうるし作家原田城二さん(沖縄本部町在住)が言った。「これが流行れば、蛇も猫も喜ぶだろうナァー」 蛇の喜ぶ顔、猫の喜ぶ顔が想い浮かんだ。そして三人で大笑いした。
伝えたい気持ちがそのまま音になっていくような、私にとって無理のない音だった。いつまでも弾いていたい音だった。新しい三味線の音だった。蛇喜猫賀の音-----。イメージが拡がった。
考えてみれば、皮を提供してくれた犬猫のことを考えてもみない、不届きな三味線弾きだった。
生命を差し出してくれた犬猫に、申し訳ない音しか出していないのではないか、深く反省させられた。
その年の夏、再び音探しの旅、沖縄へ行った。淳ちゃん、丸谷君が同行した。
ユニットの名は「蛇喜猫賀」。今の日本の音楽シーンからの決別の時となった。
多くの出会いがあった。ジャズピアニストの屋良文雄さん。透明でやさしく輝く沖縄の海のような音と人柄であった。屋良の父ちゃんとみんな呼んでいた。
大宣味村の神人(かみんちゃ)大城茂子オバァ。鈴のような声でしみわたるように唄った。スイッチの入った茂子さんは、本当に楽しそうに唄った。次から次へと唄い続けた。
青砂工芸館の安本さんは本物のインテリだった。宮古の民謡のCDを僕にくれ「これいいと思うのですが、ご意見を聞かせてください」と言った。安本さんは、自作の子守唄で子供を育てたと聞いた。「宵の明星(ゆーばんまんじゃー)が天高くのぼったから、子供たちよ、寝なさいョー」といった唄だった。音楽の出場所の深さを思い知らされた。
沖縄で友達になった吉見さん(イラストレーター)や、沖縄自然薬草センターの川畑さんたちがライブの会を企画してくれた。某陶芸作家の工房の前庭が舞台であった。
ジャズベーシストの島ちゃん、サックスの小波元君、インド音楽のヨーコちゃん(アマナ)それに沖縄に移住したばかりだったドント(元ボガンボス、故人)とチホさん(元ゼルザ、アマナ)が来てくれた。
夕暮れの夏の空はいつまでも明るかった。
僕は「熊野の楠木」を唄った。感謝の気持ちでいっぱいだった。この時間、この空間を信じて、奥武蔵で生きようと思った。
「蛇喜猫賀」は、奥武蔵を沖縄のように生きて音楽をやってきた。僕らは「奥武蔵居座りツァー」と称して、都内にも出なくなっていった。1996年以来、沖縄にも行っていない。まだ行ってはいけないような気分だった。
それから3年後、再び紙張りの三味線と出会った。リチャード・フレイビンさんだった。彼は知り合いから、太棹の義太夫三味線をもらい受け、自分の漉いた紙を張り、バンジョーのブリッジを付け、再生していたのだ。
フレイビンさんはバンジョー弾きでもある。アイリッシュの血を受けて、無類の音楽好き。好奇心に満ちあふれた童心の持ち主であった。住まいを訪ねた僕の前にその三味線を差し出し、「中川さん、これだめですか。弾いてみてください。」とイタズラっぽく笑った。
僕はその三味線を借り受け、しばらく弾いた。
昌太郎さんのことが思い出された。
紙張りの三味線は僕の宿題だった。
紙の響きは、白い音のようだと思う。
沖縄に伝わる前の中国の三弦や、その前のルーツの記憶に想いが飛んでいく。
白い音は、木そのものの声のようでもあった。
紙響白韻、そのなつかしき音よ。
この先に、沖縄への道があると感じる。
新しい音の旅が、また始まった。
新なる出会いがあること、信じてる。
2001.7.25