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高麗神社の獅子舞とその周辺・最近の状況

■2003年11月15日(土)
 
市民祭りに参加。日高市民体育館(アリーナ)の特設ステージで、竿がかりを披露しました。アリーナ公演は昨年のレインボー祭りに引き続き2回目ですが、やはりステージで獅子舞を舞うのは少し無理があるようです。

 元来獅子舞は一方向から見るべきものとして構成されていません。もっと言えば、観客を意識した構成にはなっていないのです。なので、舞う側はエネルギーの鉾先が見えず、力点が散漫となってしまいます。その結果、観客もどこをどう見れば良いのか、焦点を絞れない様子でした。やはり野外の広場で舞うほうが似合っている。そんな気がします。それとステージの床がとても滑りやすく、獅子たちは思い切った足運びができないため、普段の半分も力が出せなかったのが残念です。日舞で使われる平台ですとか、洋舞でよく使うリノリウムを敷くとか、何か工夫が必要のようです。正直、まったく気持ちの良いものではなく、フラストレーションが貯まったのは私だけだったでしょうか。

 これは余談ですが、翌日11月16日、創作野神楽やまむすべ公演(12月30日・高麗神社神楽殿)に参加する鬼剣舞の撮影をしました。で、その時、舞方の足元を見るとなんとゴム製のワラジを履いていました。名付けてゴムジ。鬼剣舞は岩手県北上地方の伝統芸能ですが、あちらではこれが一般的なのだそうです。初めて見ましたが、何とも革新的!目から鱗です。しかも全然おかしくない。これならもしかして床の上でも滑らないかも知れない・・・どうもこのゴムジ、岩手県でしか手に入らないらしい。


■2003年11月8日(土)
 
市内、女影地区にある霞野神社を参拝しました。

 かつてここには市内で最も美しい獅子頭を持つ獅子舞が奉納されていました。昭和30年代の後半からいかなる事情か、途絶えたままとなっています。どんな獅子舞だったのでしょうか。見てみたい。

 資料によりますと、およそ200年前、天保年間だそうですが、坂戸の多和目に、女影から獅子舞が伝授されたそうです。しかし、その振り付けは女影のものとはかなり違っているということなのですが(楡木のNさん談)・・・なにか手だてとはならないものでしょうか。多和目天神社の獅子舞

 女影には親戚が二件あります。祖父の兄弟のご縁です。それ故か、獅子舞の再興を願う気持ちもひとしおです。今なら、まだ間に合う・・・そう思っています。

 日高市で現在獅子が舞われている地区は4地区です。野々宮神社を中心に置くと、西に横手神社、南に諏訪神社、北に高麗神社となります。そして東に女影・霞野神社が加われば、地域としてのバランスも取れ、市全体が見えない力で安定して行く・・・そんな気がします。

 余談ですが、いつ頃のことか、鹿山にも獅子舞があったそうなのですが、狭山の柏原のお囃子と交換したということです。それが現在の高麗川神社のお囃子だそうです。又聞きなので、詳細はわかりませんが。


■2003年11月3日(祝)
 
鶴ヶ島市、高倉の獅子舞(高倉日枝神社)を拝見しました。ここは獅子舞歌がしっかり残されており、参考になるのではないか、という助言を事前に受けていたので、とても楽しみにして行ってきました。

 かつて鶴ヶ島には10を数える獅子舞が各集落で奉納されていたそうです。しかし、その多くは太平洋戦争後の混乱期に次々と姿を消してしまい(こういう場所がほんとうにあちこちたくさんあるのです。残念でなりません)現在鶴ヶ島市内で伝えられているのは、この高倉の獅子舞だけとなってしまいました。非常に残念なことではありますが、その分、鶴ヶ島市教育委員会を窓口に行政サイドからのバックアップも整い、市の重要な民族芸能として大切に見守られている様子が端からも伺うことができました。

 この獅子舞は以前は11月8・9・10日の3日間に渡って行われていたそうです。8日の揃い、9日(9という数字は祭礼にはとても重要なのです)が高倉日枝神社祭典、そして10日は村を練り歩きながらそれぞれ個別に訪問舞いを舞っていたそうです。その数はなんと70〜80件(長老の談話)にも及び、丸一日かけて歩き通し、疲れと酔いでへとへとになりながら、終いは「どじょう猫」(道中笛でしょうか。高麗神社には同様にジョウジョウネコという曲があります)の曲に合わせて幸福寺(聖天寺?)まで、ようようのことでたどり着いたとのことです。

 そのエネルギーは大変なものだったであろうことは想像できます。高麗神社でもかつて訪問獅子と称して、それぞれの地区の主立った家の庭や境内、広場などで踊っていましたが、それはもう、大騒ぎな一日でした。行くところ、行くところでお酒も入りますしね。(そのころ少年だったのが悔やまれます)

 さて、祭礼当日。宮参り雌獅子がくし竿がかり、そして再び雌獅子がくしの四庭が奉納されました。宮参りと初めの雌獅子がくしは途中休みながら同じ舞い手(中学生)が演じていました。なんとも緩やかな旋律で、太鼓の響きも柔らかく、ささらの摺り音とともにたいへん聞き心地のいいものでした。

 その気分は、次の竿がかりでさらに広がり、雌獅子が竿(この場合は川と見立てている)を越えた後の曲と獅子の動きにみごとに表現されていました。けして激しくはないけれど、緩やかながらひとつひとつの動作が大きく、大小のうねり・波を彷彿させました。川(竿)・・・それは端的には男と女の深い縁をモチーフとしていますが、印象としては人生の川・・・人が生きて行く長くせつない道のりを表しているように感じました。まさにそれは「願い」と「感謝」に裏打ちされた「祈り」そのものでした。

 「耳が感じた竿がかりの曲イメージ・・・ヒィ〜とこらしょ〜しょ〜 でぇ ヒィ〜とこらせぇ〜〜 よいとこらしょっしょ〜〜の うんこらぁせぇ〜 トヒ よいとこらしょっしょ〜〜の うんこらぁせぇ〜 ヒ〜 やれやんせぇ どれどんなぁ こなもんかぁ〜よ〜 ヒ〜

 そして途中から雨となり、終いの雌獅子がくしは集会場の中で舞われました。初めの少年たちのものとは違い、こちらはベテランの青年たちによる舞いで、味わい深いものに仕上がっていました。ことに雌獅子の静かな動きの中に見られる巧みな表現は、とても印象的でした。いずこの獅子もキーはやはり雌獅子が握っていると再認識したしだいです。

 肝心の獅子舞歌ですが、日枝神社御歌、子神稲荷神社御歌、幸福寺御歌、上組名主歌、下組名主歌の五曲が記録として残されていますが、このうち名主歌は訪問の際歌われたもので、名主制度の廃止とともに、また寺も無くなったりということで、現在歌われているのは「日枝神社御歌」のみとのことです。

この宮は 飛騨のたくみの 建てた宮 楔ひとつで 四方固める

 この御歌を曲間の池端という場面で歌っていました。法螺貝の役方も含め、歌うたいは6人程度。長老格が多かったようです。始め、笛が途切れ、歌だけが流れ、それに合わせて獅子が静かに舞います。いわゆる儀礼的な舞いで、高麗神社でいう宮参りの中の「おじぎ」の場面と同意だと思われます。歌の後半から笛も重なってゆき、獅子の動きもそれに合わせて大きくなってゆきました。その全体のハーモニーが美しく、高倉の獅子舞というものを彩っていました。

 こちらの歌も近年は西洋式の譜面に置き換えられていましたが、かつては口と耳だけによる伝承が唯一だったそうです。この歌を高麗神社にそのまま活かすことはできないまでも、おおいに参考にはなりました。皆様、どうもお疲れ様でした。来年以降、機会がありましたら、11月2日の稲荷神社、幸福寺跡までの練り歩きに同行してみたいと思います。

高倉獅子舞

11月2日 午後1時・高倉日枝神社〜稲荷神社〜幸福寺

11月3日(文化の日) 午後1時・高倉日枝神社祭典

詳細は鶴ヶ島市教育委員会まで 電話 0492-71-1111

 録音させていただいた高倉獅子舞の音を聞きながら一気にキーを打ちました。しかし、幾度繰り返して聞いてもまったく飽きないから不思議です。人の呼吸感とうまく共鳴しているからでしょうか。素晴らしいです。

 ※笛のメロディーですが、高麗神社と似たような部分、また、そのまま私にも歌えてしまう部分など、幾つか共通点を聞くことができました。宮参り、岡崎、竿がかりなど・・・ただし、獅子の振り付けは大きく違っていました。


■2003年10月26日(日)
 
例大祭から一週間後、仕事の現場で偶然にも長年、市内の横手神社で獅子舞を踊っていたYさん会いました。彼は今、日舞の世界で生計を立てているという生粋の舞踊家ですが、話をしているうちに、横手神社と高麗神社の共通点がいくつも見いだされ、近隣の神社に残っている伝承形態に学ぶ必要性を再認識しました。

 多少荒っぽい言い方ですが、横手神社と高麗神社の笛は小節の終いが上がるか下がるかの違いがあるだけで、ほとんど一緒ですし、獅子舞歌の歌詞もほとんど同じなのですから、歌も同じように歌えるのではないかなとも思います。

 現に、かつて何十年か前、一度横手神社の歌うたいに高麗神社で歌の指導をして貰ったことがあるということですし・・・(残念なのは、高麗神社に伝わる前に、その歌うたいは亡くなってしまい、復活はならなっかたそうです)《先々代導きの話)


■2003年10月21日(火)
 獅子舞歌の報告に先代の親笛さん(笛の長老・10年前、高麗神社の笛歌に一人で数字譜《笛譜》を付けて、記録化された方)今年の獅子舞報告と、獅子舞歌の感想を伺いに行きました。そこで獅子舞歌についてあれこれ離しましたが、おおむね、先日の祭礼で披露した感じで良いのではないか。というお言葉をいただきました。また、長年、実感として感じていることとして、

・雌獅子がくしの際の中獅子(雌獅子)の立ち位置はささらっこに囲まれていたのではないか

(これは本番で修正したのは下記の通り)

・導きの役割としては単に獅子と同じ動きをするのではなく、もっと大きな動き、獅子の舞いをデフォルメしたような味わいのあるものであったように思う。というのも、導き役の人は獅子舞を一通り踊りこなした熟達者なのだから、その集大成としての舞いが求められるし、その分舞いは難しいだろう

(これについては伝承されるべき手がかり・・・実際の手ほどきや身振りがまったく伝わっていないので、なんとも言えないということでひとまず納得・・・先人たちは自分で舞いを工夫し、各々仕上げていったのだろうか・・・)


■2003年10月19日(日)例大祭当日
 
晴天に恵まれ、日曜日とも重なり、大変な賑わいとなりました。

 参道の端から端まで、びっしりと人垣で埋め尽くされ、舞い手もさぞ気持ちよかったのではないでしょうか。午後1時、客殿前を出発した行列は、総勢約50人。初めて本番に臨む小獅子たち。未来へ向けて、新しい歴史の第一歩が踏み出された気がしました。この小獅子たちが40年後、50年後の獅子舞を支える力となるのです。そうして伝承は途切れることなく受け継がれて行くのですから、現場に立ち会うものとしては、気を抜く訳にはまいりません。

 さて、傍らのおとなたちをやきもきさせながらも、小獅子たちは自然体で踊っていました。このように力の抜けた舞いは小獅子にしかできないのかも知れません。雑念、邪念、功名心など一切無く、ただひたすら舞うのみです。だから素晴らしい。獅子舞は上手く踊る必要なんか、ないのですね。

 次は中獅子たちの出番です。新人ながらいきなり中獅子に繰り上がってしまったI君。ほんとうによく踊ってくれました。彼は自分の出番が終わった後も、願獅子、竿がかりについて、傍らで一生懸命に舞いを真似て踊っていました。その姿に心打たれた人々は多かったのではないでしょうか。勿論、私もその一人です。それは、獅子舞という伝承形態が、未来へ受け継がれた瞬間でした。

 近年、毎回のように問題になることがあるのですが、それは雌獅子がくしの核心部なのですが、花にみたてたささらっこたちの間に雌獅子が隠れ、二頭の雄獅子が探し回る場面で、
現状では花の中ではなく、花の傍らで雌獅子が太鼓を叩いている(たぶん、そのほうが叩きやすいからでしょう)のに対して、祭礼当日になってそれを見る長老たちは、本番にも関わらず、かつて雌獅子は花の中で、花に囲まれて舞っていたのだという主張を繰り返します。

 確かに雌獅子がくしという内容からみれば、その方が腑に落ちますが、もう何十年も現状の舞いが続いており、現場の関係者でその場面を知っているものが皆無なために、毎年曖昧にしてきていたのです。

 ところが、今年は違っていました。70歳代の長老たちの主張に押されるかたちで、雌獅子をささらっこたちで囲んでみました。練習でも一度もやったことなどありませんので、それぞれの舞い手はかなりとまどった様子でしたが、たしかにそうした方がストーリーも判りやすいように思いました。

 こうして伝承がひとつ、修復されました。おそらく、50年か60年振りの快挙です。長老たちにとっても長年の鬱積が晴れたのではないでしょうか。勿論、来年からは練習でも同様に行うことは言うまでもありません。
 さらに宮司や長老たちにとって数十年越しの悲願であった
「獅子舞歌」が今年、とうとう復活してしまいました。

 手前ミソになりますが、もう何年も前から私がその大役を任命されていたのです。そして今年、ままよとばかり、無理矢理、半ば強引に歌い出してしまいました。ですから、まだまったく歌としては仕上がっていませんが、何はともあれ、次世代へ向けて少し前進できたと思っています。何よりも、長老たちがその歌い回しをおおむね受け入れてくれたことが励みとなりました。これに関しては別な機会に詳しく述べたいと思っています。

 とまれ、こうして、今年の例大祭・奉納獅子舞も気持ちよく終えることができました。いざ、なおらい(直会/打ち上げ)へと突入です。

●今後の課題・・・1 願獅子について。

 高麗神社の場合、長いこと願獅子を舞うのは親獅子を終え、後継者たちの指導をしながら精進を重ねた、ある程度の長老格が舞っていました。その理由の一つには、長いあいだ、後継者がなかなか育たなかったという側面もあると思っていますが、何よりも多くの人々の祈願を背負って渾身を振り絞って舞うためには、相応の想いが必要で、それが表現できるのは、やはり人生において様々な喜怒哀楽を経験したであろう年齢層にこそふさわしい。あるいはその逆に全くの純粋無垢ともいえる幼児が適任でしょう。少なくとも血気盛ん、あるいは、生々しい現実社会と向き合っている青年層の舞いではないことだけは確かなのです。が、なかなかその主張がうまく伝わらない。形のみを引き継いだとしても仕方のないことのように思うのですが。。。

●今後の課題・・・2 笛歌について。

 10年ほど前から獅子舞練習に使う笛の歌本(楽譜)に画期的な方法が導入されました。当時の親笛さんがたった一人で取り組んだ大事業。それはトヒーヒャヒーの類で構成される歌詞に対して、それぞれの文字に0から6までの数字を割り振っていったのでした。獅子舞で使うのは6穴の篠笛です。押さえる指のパターンは7種類。それを数字で表したということです。現在、笛を習う子どもたちは皆、この番号で曲を覚えています。初めて習う子どもでも、番号どおり指を押さえていけば、なんとか曲になってしまいます。そのことはとても素晴らしいことだとは思いますが、どうも何かが変なのです。どうも音が一本調子なのです。

 実は数字だけではどうしても伝わらないニュアンスがトヒーヒャヒーの笛歌には含まれています。それは音の強弱や間、微妙な音さばきなどです。それが曲の気分を醸しだし、獅子たちの舞いに反映するのです。そもそも笛歌がすでに音符を意味しているのです。番号で言えばトが4番、ヒャが5番、ヒーが6番というように。(笛譜というそうです

 そんな訳で
笛歌を唱えることが獅子舞の心を伝えることに繋がるのだと実感しています。

※便宜上、「笛歌」と「獅子舞歌」に分けています。笛歌は音色を文字にしたもの(トヒーヒャヒーの類)。対して獅子舞歌は短歌形式の歌として残されています。

高麗神社の獅子舞歌

1. この宮は 角の柱で 白金で 社壇黄金で 宮が輝く

2. 千早振る 神の御末に 夢さめて 阿吽の二字を 聞くぞ喜ぶ

3. この町は 縦が十五里 横七里 入りはよく見て 出には迷うな

4. この町は 諸国人の お立ち会い おどりながらも 心はずかし

5. 日は暮るる 道の根笹に 露もちて 暇もうすぞ いざや獅子どの


■2003年10月
 昨年までの踊り手がそれぞれ成長し、そろそろ次の後継者を育てようということで、今年は小(こ)獅子(宮参り)※1の演者が新しくなりました。先(さき)獅子が中学2年生、中(なか)獅子と後(あと)獅子が小学6年生です。

 また、練習初日の終了後になって棒使い役の男子(中学2年生)が突然、

「僕は獅子を踊りたいんだ」

と訴えてきました。本来なら人選も決まり、練習も始まってしまった後ですので、そんな願いが通るはずもありません。

 しかし、言ってみるものですね。実はその少年の兄(高校生)が獅子を踊っていたのですが、昨年から参加しなくなっていました。こういうことは受験勉強などを口実に以前からよくあることで、その都度現役を退いた者や、別の踊り手が代わって踊っていましたので今年もその手はずを整えていたのですが、世話役たちが彼の熱意と決意に動かされ、「兄の代わりに踊る」という名目で特例が許されることになりました。もちろん、兄のように途中で投げ出すことのないよう、くれぐれも念を押したことは言うまでもありません。

 しかも本来なら小獅子(宮参り)を5年あまり踊ってから漸く次に踊れる庭の「雌獅子隠し」役にいきなり昇格してしまったのです。結果、同学年で一人は小獅子、一方は中(ちゅう)獅子※2ということで、少々複雑な配置となってしまいました。ほんとうにこんなことは例外中の例外で、私の知る限りは過去に1年だけ兄の代わりとしてスポットで踊った少年以来のことだと記憶しています。

 一方、念願の獅子を踊ることが叶った少年は幸運です。やはり彼にとって獅子舞・・・また、獅子を被ることは憧れだったに違いありません。ささらっこや棒使い役をやりながら、今まで羨望の眼差しで獅子を見つめていたのでしょう。まさにそれこそが獅子舞に限らず、伝統芸能を伝承させてゆく上でもっとも重要なポイントなのではないでしょうか。芸能が次代を担う少年たちの目に憧憬の対象として写らなかったなら、伝承はますます難しいものとなってゆくことでしょう。

結論です。おとなたちが本気で夢中になって踊っている姿を、少年少女たちに真っ正面からさらすしかないのです。

私たち、あるいは伝統芸能の継承に熱い思いを持っている多くの人たちが次世代に伝えたいこと。それは
芸能の形や手順などではありません。「気持ち」「気分」・・・すなわち「心」なのですから。


 さて、新しい小獅子の誕生とともにそれぞれの役回りも大きく入れ替わることになりました。長い間牽引役をつとめた導き役の引退、雌獅子がくし役、竿掛かり(親獅子)の昇格、願獅子役の刷新、また、棒使い、ささらっこの更新、また、笛方でも引退にともない、親笛が新しく一人任命され、いよいよ祭礼の当日を待つのみとなりました。

※1 小(こ)獅子=あるいは子獅子か。宮参り役を指します。獅子舞役はおおむね小学5〜6年生で始めることが高麗神社の慣例となっていますが、中には小学3年生から始めた子もあり、また、私の場合、中学3年生からと奥手の極みでした。

※2 中(ちゅう)獅子=宮参りの次の庭・雌獅子隠し役を言います。通常、宮参りを卒業した高校生くらいの若者です。


■2003年10月20日

 例大祭の翌日から、「高麗神社の獅子舞」ホームページの試作に取りかかりました。さて、どういう展開になるか、とっても楽しみなんです。



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